第八夜







「ほら」
「悪ぃな、兄貴……………」

涼介から湯飲みを受け取り、袂から煙管を出して銜える啓介は、やはりどこか元気がなかった。
そんな啓介を見ながら、涼介は自分の机の前に座り、湯飲みをコトリと置いた。肌寒くなってきた為、火をおこした火鉢に手をかざしながら涼介は啓介の言葉を待った。

「俺………秋葉に身請けの話をした」
「………………」
「……はっきり、断わられちまった」

そう言うと、啓介は湯飲みに口をつけて一口飲む。涼介はまだ黙ったまま、何かを考えている風だった。

「……………」
「啓介―――花魁でも色子でも、身請けには相当金がいるのは知った上で、そう言ったんだろうな」
「わかってるぜ?だから、今すぐじゃなくて―――金を貯めて、自分の力であいつを身請けしたいんだ」
「でも、お前はどうやって金を得るつもりなんだ゜?まだ一応勉強している身なんだぞ」
「……………」

黙り込んでしまった啓介に一つため息をつくと、涼介も湯飲みに口をつける。

「それに……親父やお袋になんと言うつもりだ。あまり気にしない人達とは言え、まさか色子を身請けするから金を出してくれとはいえないだろう?」
「それは……当たり前だろ………」

だんだんと声が小さくなっていく啓介が、その大きい背中までも縮こまって丸くなっていくのを見た涼介はやれやれと小さく呟いた。



なんだかんだ言っても、どうやら自分は昔からこの弟には甘いのは変わらないらしい。



それに彼の友人の辰巳の事はよく知っているし、啓介が惚れこんでいるらしい『秋葉』の事も、噂でしか聞いた事はないが悪い印象は感じていなかった。



(それなら少し………時間はかかるが手助けしてやるか――――



「お前は本当に―――『秋葉』を身請けする覚悟は出来ているんだろうな」

涼介の声音が少し変わったのを感じた啓介は、ばっと顔をあげた。そこには今までと違う、まっすぐにみつめる涼介の真っ黒な瞳があった。その表情に啓介もまた、顔を引き締めて頷く。

「あぁ………俺はもう、とうのとっくに覚悟できてるぜ?」




――――『秋葉』と……共にいたいと。自分のそばにいて欲しいと。




啓介のその表情と言葉に涼介は偽りのない気持ちを感じ、自分の考えを述べだした。









啓介に身請けの話を切り出されて断わった日から、拓海は今だ熱が引かないでいた。
寝込むほどではないもののやはり客に移したらまずいと思い、しばらくの間は客寄せにも顔を出さず部屋にこもりきりになっていた。


あの日から降っている雨はまだやまない。


啓介もあれから拓海の元には現れなかった。



身請けできないとわかって、こちらに来る事自体ももう諦めたのだろう。
啓介はまだ若いしこれから素敵な女性と出会い、身を固めていくはずだからこれで良かったのだと拓海は思っていた。




なのに――――


何故、あの笑顔を見る事がもう二度とできないと思うだけで、こんなにも胸が痛むのか。





――――拓海」

脇息にくったりともたれかかったまま、ぼんやりしていた拓海ははっとして顔をあげる。呼ばれた方を向くと、そこには辰巳が心配そうに立っていた。

「二代目……すみません、出迎えもせずに――――
「いいから―――まだ具合は良くないんだろう?そのままで構わない」
「………申し訳、ありません…………」
「拓海に、客がきている」
「………え?でも………」

仕事は休みなのに、と続ける拓海に、辰巳は首を振って体を少しずらす。するとその隣から、背の高い男が姿を現す。その背格好に、拓海は思わずカタン、と脇息を倒してしまった。その姿は今まさにずっと思い描いていた面影のようだった。

「啓介、様…………っ…」
「拓海、啓介じゃないんだ。…………啓介の、兄貴だ」
「兄、上―――様…?」

熱のためにぼんやりと潤んだ瞳で見上げる拓海に、涼介は小さく口元に綺麗な笑みを浮かべた。






「これは………熱をさます薬だ。食事のあと、一包ずつ飲めば次第に熱は下がってくるはずだ」
「でも………ただでは受け取るわけにはいきませぬ」
―――これの金はもうすでに受け取っている」

薬の入った包みをいくつか渡そうとする涼介に拓海は首を振るが、続けて聞こえてきた涼介の言葉に、思わず辰巳を見る。しかし辰巳は、自分ではないと小さく首を振った。

「では―――ますます受け取る訳には……」
「これは……啓介が金を出している」
「…………!!」

啓介にどこか面立ちの似ている涼介から出てきた名前に、拓海は目を大きく見開いた。そしてそのまま目の前に置かれた薬の包みへと視線を移す。そんな拓海の様子を涼介は黙ったままじっと見つめていた。


他の色子のようにあからさまな色気はないものの、その楚々とした佇まいの中に何か惹かれるものを感じる、と涼介は思った。そして一度自分で決めた事は頑として変えない、意思の強さも彼に引き寄せられてしまう魅力の一つなのだろうと冷静に分析していた。

「そして……啓介から秋葉殿に言伝を頼まれている」
「え…………」
「…………もう、この見世に来ることはできなくなった、と」



その言葉には拓海はもちろん、辰巳でさえも耳を疑った。

あんなに拓海に惹かれていたであろう啓介が、もう見世には来れないというのはどういう事なのか。
そんな事一言も言わなかったのにと、辰巳は膝の上に置いていた手をきつく握りしめる。
拓海は隣で黙ったままだった。


「……………」
「な、何でですか?!涼介殿………啓介が、もうここに来られないなどと、」
「二代目――――、もう…よろしゅうございます」
「しかし、拓海――――

膝を乗り出して涼介を問い詰めようとしている辰巳を、拓海は静かに止めた。そして背中をまっすぐと伸ばし、目の前の涼介を見つめたあと深々と頭を下げた。

「………高橋様、わざわざ足場の悪い中、こんな所まで足をお運びいただきありがとうございます」
―――――――
「………このお薬…ありがたく、頂戴いたします」



―――啓介様にも、よろしゅうお伝えくださいませ。



凛とした、迷いのない拓海の言葉に涼介は一つため息をつく。そして、顔を伏せたままの拓海の前に、涼介は着物の合わせから一つの文を取り出し、そっと置いた。

「これは………啓介からそなたにと頼まれて預かった文だ」
「…………え?」

思いがけない言葉に、顔を上げた拓海にふっ……と笑いかけると、涼介は静かに立ち上がる。

「それを読んで欲しいそうだ。正直――秋葉殿をこの目で確かめるまでは、この文を渡そうかどうしようか迷っていた」
――――――
「しかし……これは秋葉殿に渡しておく。読むも読まないもそなたの自由だ。ただ――――



そこに書かれている事は、全て啓介自身の心からの言葉だから。信じてやって欲しい――――



そう最後に告げると、涼介はくるっと背中を向けて拓海の部屋から出て行く。そのあとを辰巳が追いかけて、部屋の中は再び静寂に包まれる。




拓海はしばらくの間、自分の前に置かれた啓介からの文をじっと見下ろしていた。
ここには何が書かれているのか。
もう二度と見世にはこられない旨がしたためられているのだろうか。

すぐに文を広げる勇気もなく、拓海はふぅっとため息をついて脇息にもたれかかった。しかし目を閉じても、自分の前に置かれた文の存在は消えてくれる事はない。
やがて意を決して拓海は体を起こし、そっと文を手に取った。手に取るだけで、啓介との逢瀬が意識を埋め尽くして、体がほわりと熱くなってくる。ただでさえ熱をもつ体がさらに熱くなり、拓海は垂れ落ちる前髪を指で掬い上げながら文を開いていった。




やがて、ぱたぱたと、文の上に雫がいくつか落ちていく。

筆でしたためられた文字がいくつか零れ落ちたもので滲んでいった。





―――啓介、様…………っ…」





そう呟くと拓海は頬に伝う雫を払いもせず、そっと文を再び閉じて戻し、雨の降りしきる夜の闇の向こうを見上げた。





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