第三夜
初めて秋葉を見かけてから数日後。啓介は再び色街へと足を向けていた。
辰巳がどう言ったのか、如月屋で人気のある秋葉を揚げることができると言われたのはつい昨日。
初めて秋葉をみた時はそんなつもりはないと言ってたものの、やはりどこか好奇心もあったのだろう。気がつけば、辰巳から連絡をもらった時は素直に行く事を了承した。
色街は高い塀がめぐらされ、色子達が容易には脱走ができないようになっている。
遊郭や色街というところは、一見華やかではあるが、その実はとても過酷な世界だ。耐え切れなくなって脱走を試みるも、見つかって連れ戻されて折檻を受ける事も多いと聞く。秋葉のような上の格付けの位置にいる色子や遊女はほんの一部で、その底辺は苦しみに喘ぐ者が殆どだった。
見張りが交代で立っている朱色の大門をくぐり抜けて、閉塞した空間へと啓介は足を踏み入れた。
今宵も相変わらず一夜の快楽を求める男達で街はごったがえしている。
啓介は今夜はまっすぐ、辰巳の父親の見世である如月屋へと向かっていった。やがて相変わらず人だかりができている格子の近づいてくると、啓介の心の中には少しの優越感が生まれてきた。
自分はこれから、あの男達の視線の先にある存在となじみになるのだ。
誰もが一度は惹かれゆくあの『秋葉』と――――――
啓介はごくっと一回唾を飲み込み、格子に群がる男達の間をすり抜けて如月屋の色子達の前に立った。
啓介に気がついた色子達は途端に色めき、ひそひそと言葉を交わしてそれぞれが流し目を送ってくる。しかしそれには一向に視線を向けず、啓介は相変わらずそっけなく視線を僅かに落とした男のまん前まで歩いていき足を止めた。
途端に辺りがざわざわとざわめきだす。中には、
「おい、あれ―――――高橋屋の次男坊じゃねぇか…?」
と囁きだすいう輩もいる。この界隈では『高橋屋』と言ったら知らぬものはいないくらい、有名な薬問屋である。啓介はそこの次男で、長男の涼介と共に美形の兄弟としても顔を知られていたのだ。その高橋屋の次男坊が今人気のある『秋葉』の元に向かったのを見てたら、それなりに騒ぎになるのは必須だった。
しかしそれらのざわめきを全部無視し、啓介は秋葉の目の前の格子をぐっと掴んだ。それと同時に憂いを含んだ秋葉の顔がゆっくりとあがり、啓介の視線を捉えた。
二人の間で一瞬、視線が絡み合う。
その瞬間を目撃していた人間達は一様に、二人を取り巻いた空気に言葉を失っていた。
ざわめきが大きくなったと感じて、秋葉は俯いていた視線をゆっくりとあげていくと、自分の目の前で格子を掴む、骨ばった大きな手が視界に入った。そこから続いている腕は、質のよい着物を粋よく流し着している肩へと繋がり、たくましい首筋から整った顔立ちの中にある鋭い双眸にぶつかった。
「―――――――――」
来た、と秋葉は思った。啓介のあの、きりとつりあがった目が秋葉を射抜く。
その瞬間、何とも言えぬ快感に近いものが背筋を這い上がったのを感じた。
話は数日前にさかのぼる。
普段は滅多に姿を現さない如月屋の主人とその息子が秋葉の元を訪れた。
そして主人から何日か後に、息子の知り合いが見世にくるから相手をしてやって欲しいと頼まれたのだった。
その話を聞き、秋葉は辰巳と一緒にいた背の高い男前を思い出していた。
「本来なら別の客が入っている時はこういう事はしないのだが、惣之助がどうしてもと言うもんでな」
立ち上がりながら、自分の息子を見てそう言うと主人は部屋を出て行った。
その後姿を見て頭を下げた秋葉に、惣之助は袂から煙管を出して口に銜えながら頬を掻く。
「すまねぇ、拓海………勝手な事しちまって」
「いえ………でも珍しいですね、惣之助様がご主人にわがままをおっしゃるのも」
惣之助はその言葉に苦笑すると、「拓海」と呼ばれた秋葉はそっと俯いた。拓海を源氏名で呼ばないのはこの如月屋の中では惣之助だけだった。
「ん………どうしてか、あいつを拓海に会わせたかった――――」
「この間の……方でしょうか」
「あぁ……ちゃんと見てたんだな」
惣之助はやっぱり……と笑って拓海を見た。拓海は思わせぶりな辰巳の視線からふっと顔を反らせて、窓から見える空をぼんやりと見上げる。
「そりゃ……二代目が珍しくご友人を連れていたら―――」
「それだけかい?」
「…………え?」
惣之助の意味ありげな言葉に、きょとんとしたような表情で拓海が視線を戻す。代わりに惣之助が窓の外へと視線をやる。まだ明るい表通りはざわざわと賑やかだった。禿達が見世の前で遊んでいるのか、幼い声も聞こえてくる。
「どういう意味ですか……?」
「…………いや、わからなければいい」
惣之助は煙管を銜えたまま立ち上がり、拓海に笑みを浮かべた。
「私は………拓海には、いつまでもこの世界にいてもらいたくないと思っているからな。親父の前ではそんなことは言えないが」
「……………自分はもう、戻れないですよ」
外見に似合わない強い口調で呟くと、拓海は窓へと近寄り凭れかかった。どこまでも続く青い空は、それでも拓海の心までは晴れさせてくれなかった。
「拓海――――――」
「肩身狭く生きていくのなら……いっその事誰にも頼らず、一人で生きていくほうがマシです」
「…………………」
そう言ったきり、空を見上げ続けている拓海に、惣之助はそれ以上何も言う事が出来なかった。
「……………高橋、様ですね」
拓海は目の前の男にそう呟いた。男は相変わらず格子を掴んだまま、小さく頷く。
「お待ちしていました………どうぞ、見世の中に―――――」
そう告げると拓海は立ち上がり、格子の前から立ち去っていく。その後ろ姿を、啓介はじっと見つめ続けていた。
今聞こえた声はまぎれもなく男のものだった。
黙っていれば中性的なものを感じないわけではない。だけどその声を聞けば、やっぱり心のどこかで違うという声が聞こえてくる気がした。
(―――――いくら座敷持ちとか言われたって、男じゃその気になんかなれる訳ねぇよ……辰巳のヤツ、何であんな事……)
そう思いながら小さく舌打ちをした啓介は格子から手を離す。興味津々な視線を睨みつけて跳ね返し、如月屋へと入っていった。
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