第十夜







「…………私も、その噂は小耳に挟んだ」

数日後、拓海の部屋を訪れた辰巳は、拓海が客から聞いた話に苦々しげに呟いて煙管をふかす。その横顔を拓海は無言で見つめていた。

「どこでどう尾ひれがついたんだかわからんが……当の本人に確認したくても、今は修行中でなかなか会うこともできなかった」
「修行………」
「啓介があの高橋屋の暖簾分けをするという話は知っているか?」
「はい………ちらりと、啓介様から伺っておりました…」

拓海の言葉に、辰巳は息と煙を同時に吐き出した。

「しかし…暖簾分けできる様になれば、いずれは拓海を身請けするものだと思っていたが………」
「……………それは………考えられませぬ」
「……どうしてだ?」
「…………………」
「あの時…涼介殿が拓海に渡した手紙に、何か書いてあったのか?」

辰巳が煙管を置き拓海へと向き直って尋ねるが、拓海は目を伏せて小さく頭を振った。



―――今の拓海は、水が足りずに干からびた地で萎れてしまった花のようだ。



俯いたままの拓海の様子にそんな事を思いながら、辰巳はどうしたものか……とため息を吐きつつ再び煙管を手にする。この部屋に来る前、拓海についている新造達からは、拓海が噂を耳にしてから一気にやつれてしまったという話を聞いていた。そしていざ拓海を見た途端、これは酷い…と辰巳は眉をひそめた。ただでさえ多弁ではない拓海は、胸中の辛い思いを誰かに吐露する事もしなかったのだろう。

以前よりも口数が減り、表情に翳りが浮かんでいる。
そんな拓海を見て、辰巳は胸を痛めると同時に、どこかで拓海にそんなまで思われる啓介を羨ましいとも少しだけ思ったのだった。



ふいに襖が小さく叩かれ、拓海のお付きの新造の声が聞こえてきた。

「秋葉殿………お客さんが、参られました」
「誰…?今夜は誰もいないはずだけれど―――――
「それが…………その…」

いつもは闊達な新造が、何故か歯切れが悪い。一体何があったのだろうと思って、拓海が部屋へ入るよう告げると、襖を開けた新造が戸惑いを隠せない表情でそこにいた。
その彼の様子に、拓海は首を傾げた。

「どうしたの……?」
「…………山野屋の旦那が、見えております」
「山野屋…………」
「廉次郎様が………?」

思いも寄らぬ名前に拓海と辰巳は顔を見合わせた。



拓海を身請けしたいと熱心に寄って来る男が、約束をしたわけでもないのに見世に来ているという。

「…………お通ししてください」
「拓海――――、」
「大丈夫です、二代目………何度言われても、私は身請けのお話はお断りいたしますから」

拓海は心配げに見つめる辰巳に、そっと笑みを浮かべた。





「………と言う事で、これを預かってきた」

男が差し出す文を開けることもせずに、拓海は青ざめた表情で畳の縁を凝視していた。そんな拓海の様子に、男はため息をつくと袂から煙管を取り出した。

「とにかく…ここに書いてある事はすべて真実だ」
「何故……何故、廉次郎様が私の父になどお会いになったのですか?」
「そなたを身請けする為の準備だ」

脇息にもたれ、煙管をふかしながら告げる男の顔を拓海はちらりと見、それから目の前の文へと視線を向ける。



そこにあるのは、男が拓海の父親の元に連れて行った医者だという人間が書いた、診断書と呼ばれるものだった。


何故、父の診断書がここにあるのか。
拓海は男の意図がわからず、困惑した顔でその文を見つめていると、痺れをきらしたのか男がそれに手を伸ばしてカサカサと文を開いてみせる。
そこには拓海の父親の名前、病名などが記されており、最後に診断したと思われる医者の名前が載っていた。

「読んでみなさい」
「………………」
「私が信頼する医者に、そなたの父親を診てもらった結果だ」
「そんな……体調が悪いなどと、先日もらった文には一言も………」

目の前の文を見ながら拓海が呟くと、何故か男はギクリとした表情を浮かべた。しかし、文を見下ろしている拓海はそんな男に気づいた様子はなかった。
それを確認した男は、安心したようにふぅ……と煙を吐き出しながら拓海を見つめた。

「とにかく、医者は今ならまだ進行は遅いから、早く治した方が良いと言っていた」
「でも…………」
「金なら、私が出そう」

男の言葉に、拓海はバッと顔を上げた。

「その代わり、秋葉の身請けは私がする」
「っ…………!!」
「そなたの父にも、もう話はつけてある」

男の言葉に拓海は目を見開き、それから俯き、唇を噛みしめた。この男は父親の治療費と引き換えに、拓海を身請けするつもりなのだ。
そのやり方に汚いとは思いつつも、立場的に弱い拓海は非難できるはずもなかった。


結局、この世はすべて金なのだ。


よくわかっているのに、いざそれを目の前で見せつけられると何もできずにいる自分がどうしようもなく悔しく思えた。

―――――もう二、三日…お時間をいただけますでしょうか………」

この如月屋の主人とも、よく話し合いたいと拓海が俯いたまま呟くと、男は満足げに口端を吊り上げる。

「わかった。では三日後に請け出しの惣仕舞(その店の色子達を全部一座に呼んで遊興すること)をするからな。身辺の整理をしておくように」

そう言って男は立ち上がり、部屋の外で待機していた新造達に見送られながら去っていった。



一人残された拓海は父親の病名が記された紙を震える手に取り、ぐしゃりと握りつぶした。








「啓介……まだ起きているのか」

夜も深まった時刻に、啓介の部屋の明かりがまだ灯っているのを見た涼介は、そっと合図して襖を開ける。行灯の灯りの前で熱心に本を読んでいた啓介は、涼介の声に顔を上げて苦笑しながら頭を掻いた。

「俺は兄貴みてぇに頭がいいわけじゃないからさ……少しでも死ぬ気でやらなきゃ無理だしよ」

そう言って再び本に目を落とす啓介に、涼介は小さく笑うとその傍らに腰を下ろす。

「親父達が良い心がけだと言っていたぞ……これなら安心して暖簾分けできるってな」
「当たり前だろ………もう、俺には時間がねぇんだ」

そう言って本を閉じた啓介の表情に、涼介は笑みを打ち消した。

「やっぱり聞いたか………巷の噂」
「あぁ………どいつが流したんだか知らねぇが、適当な嘘っぱちを流しやがって」

苦々しげにそう吐き捨てながら煙管を取り出す啓介に、涼介は腕組みをした。

「さらに今日伝え聞いた話だが……山野屋の奴が、秋葉殿の身請けを改めて申し入れしてきたらしい。しかも……交換条件を出してな」
「交換条件………?」
――――どうやら、秋葉殿の父親を『勝手』に病気に仕立て上げたようだ」
「…………!?な、んだって…………」

涼介の言葉に啓介は目を見張り、それからドンッと机を叩いた。すでに空になっていた湯飲みがカタンと倒れ、僅かに残っていた茶が机へとこぼれだす。しかし啓介はそれに構わず拳を震わせていた。

「くっ、そ………山野屋の奴、小汚ねぇ手を使いやがって!」
「どうもその医者とは裏で繋がりがありそうだな………予測に過ぎないが、恐らくお前が嫁を取るという噂ももしかすると…」
「………秋葉の請け出しはいつなんだ?兄貴―――

せわしなく煙管をトントンと叩きながらぎり、と啓介が涼介を見つめる。

―――三日後、だそうだ」
「…………そんだけあれば、なんとかなる。明日、親父に認めてもらえさえすれば…秋葉を請ける事ができるんだ」

結局、兄貴には借りをたくさん作っちまったけど、と少し申し訳なさそうに啓介が呟けば、涼介はくすっと笑いながら立ち上がった。部屋を去り際、啓介の肩をトンっと叩いていく。

「………礼は、秋葉殿のお酌でも構わんが?」
「……それだけは、絶対ェごめんこうむる」

軽く冗談を言う涼介に、啓介は苦笑しつつ返した。





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