最終夜







「啓介!!お前、何しているんだっ!!」

この騒ぎに一人の新造が慌てて呼びに行った辰巳が、血相を変えて大座敷へと走ってくる。
しかし周りの喧騒をよそに啓介も、そして腕の中にいる拓海も、不思議と落ち着いた顔をして辰巳を見ていた。

「お前………っ、いくらお前でも見世で何か事を起こしたら承知しねぇからなっ?!」
「平気だって、辰巳……お前も、お前の親父さんにも泥をつけるような事はしねぇよ」

とは言いつつも、片腕で拓海を抱きしめ、もう片手には短刀を手にしている啓介のその言葉はあまり説得力がない。



そんな啓介の腕に抱かれつつ、その横顔を見つめている拓海は不思議と恐怖は湧いていなかった。
むしろ久々に触れる啓介のぬくもりや漂う匂いに、拓海の体は自然と熱を持ち出していたのだった。

あの時、申し出を断わってから会うことも触れることも叶わなかった啓介が、今ここにいて自分を攫っていこうとしている。
「信じてくれ」と文に書いていた啓介の気持ちは本物だったのだとわかると、拓海は嬉しいような、そして彼を一時でも疑ってしまった事を申し訳なく思った。

今、彼が自分を殺めたいと思っているのなら、自分はそれに甘んじようと思う。
彼と過ごしたひとときを胸にしまい、他の男の元で一生体だけを差し出して生きていくのなら、愛しい男の手で命を断たれたほうが何とも幸せではないか――――


そう思うからこそ、拓海は今この状況でも落ち着いている事ができたのだった。




「秋葉…………」

ふと啓介が、拓海の方に視線を向けて静かに名前を呼ぶ。それに視線で答えると、啓介は穏やかな瞳で見つめながら口元に笑みを浮かべた。

「お前のさ……本当の名前、教えてくんねぇかな」

今のこの雰囲気には相当似つかわしくない啓介の言葉に、拓海は一瞬その大きな瞳を瞬かせた。

「もうこれからは『色子』じゃないお前と暮らしていくのに、名前がわからなければ…俺が困る」

戯れではない、思いを込めた啓介の言葉は拓海の心の奥底に染み渡っていく。拓海もそっと口元を綻ばせながら言葉を紡ぎだす。

「…くみ………」
「………………」
「拓海、です…啓介様…」
「たくみ…ね。ついでに言うなら、もう俺の事は様なんかつけなくていい」

啓介はそう言うと、抱きしめていた手で拓海のゆるく束ねている茶色の髪を手に掴む。その動作にまた周りがざわめく。辰巳は何とかして止めたいものの、二人のとりまく空気に体が動かずにいた。



「これからはずっと……『拓海』として生きていくのに。これだってもういらねぇだろ?」





そう言いながら笑うと、啓介は握っている髪の束に短刀を当て、一気に力を入れた。



「っ、啓介!!」

その瞬間、啓介の名前を呼ぶ辰巳の声は周囲の悲鳴にかき消されてしまう。
それと同時に、パラパラと茶色の束が畳の上へと散らばって落ちていった。短刀を放り投げて、手に残ったそれをパンパンと払い、啓介は隣の思い人へと視線を向ける。

肩をゆうに越していた艶やかな茶色の髪が、今はざっくりと顎の線までになってしまった。そんな自分の髪を特に驚きもせずに、拓海はそっと自分の手でそれを触って確かめる。

「…………啓介、様…」
「だから、様はいらねぇって言ってんのに」
「…すぐには、無理、です……」
「まぁ、そのうち慣れていってくれりゃいいよ」
「………何の騒ぎだ、これは」

ふと低い声が部屋に響き渡って、拓海と啓介は会話を止めて声をした方に振り返った。そこには、戻ってきた如月屋の主人が立ちすくんだままの辰巳をどかして立っていた。主人の登場に部屋はシン……と静まり返る。拓海は主人の顔に泥を塗るような事をしてしまったのではないか…と今更ながらに体が震えだす。
啓介はそんな拓海の肩を安心させるように叩いて離れ、如月屋の前に立った。

「………どうだった?親父さん」
「…………こちらとしては、山野屋さん以上の金が出せれば何ら問題はない。ただし、揉め事は外でやってくれ」

その言葉に辰巳が父親に近づく。

「親父………まさか――――
「山野屋さん、そういう事だ……申し訳ないが『秋葉』は高橋屋に身請けさせる」
「……………っ、待て!先に身請けするのは私のはずだぞ!」
「ニセの『診断書』をちらつかせてまでかよ」
「っ!!」

上座からズカズカと駆け下り、如月屋の主人に噛み付かんばかりの男の背中に、啓介がフンと鼻を鳴らしながら嘲笑混じりに言葉を投げかける。その言葉に男の体がビクリと揺れた。

「………ニセ?それって…嘘って事、ですか……?」

拓海の唖然とした言葉にまた周囲がざわめきだす。それを静まらせるように如月屋は啓介に向き直った。

「金と一緒に客人も来ていたが……こっちへ通してよかったか?」
「あぁ、構わねぇぜ。元々そのつもりだったし」
「………だそうだが」

そう言って如月屋が後ろを振り返ると、ひょろりとした男が一人、そろそろと近づいてきたのを見てそれまで黙り込んでいた山野屋が声を上げた。

「きっ、貴様………!何故こんな所にいやがる!」
「残念だけど。この医者は、俺の親父のお得意なんだよな」

啓介がそう言うと、山野屋が「何だって……」と唖然とする。
拓海は、一体何がどうなっているのか何も理解できずに、ただ目の前の光景をぼんやりと見つめているだけだった。そんな拓海に、啓介はくすくす笑いながらそっと肩を抱き寄せた。

「要するに、この野郎は拓海を手に入れたいが為に、この医者に偽物の診断書を書かせたって事。親父さんが元気で暮らしていることは確認済みだぜ」
「親父……元気、なんですか………?」
「あぁ。しかもこの医者はうちの店から薬を買ってるからさ、少し噂を耳に入れて問いただしたらあっと言う間に嘘だったって白状した」
「……う、そ………だったんです、か……」

次第に状況が理解できていくにつれ、拓海はだんだんと腸が煮えくり返りだしていくのを感じていた。
そして騒ぎの元を作った山野屋を睨みつけると、男はさっと顔を青ざめさせ拓海から視線を逸らしてしまった。

「…………っ、」
「行こうぜ、『拓海』――――

『秋葉』ではなく、本当の名前を呼んで啓介が拓海の肩を叩く。はっと我に返った拓海が啓介を振り返ると、いつもの強気な笑みを浮かべていた。それは、拓海がずっと好きだと思っていた笑顔であった。




「これからはもう―――お前は自由だ」




俺と一緒に歩いていこうぜ。





そう言い、啓介は拓海の手を握り大座敷から出て行く。
そして拓海もその手をぎゅっと握りしめ、如月屋をあとにした―――――








「拓海…………精が出るな」
「あ……涼介さ、ん……いらっしゃいませ、すみません、気がつかずに」

今だ色街で働いていた癖が抜けず、思わず「様」とつけてしまいそうになる拓海に、涼介はふっと笑い、「啓介は中にいるのか?」と問いかけた。

「はい、おります。どうぞ…………」

店先を掃除していた箒を片づけて、ほんのりはにかんだ笑みを見せながら中に通す拓海に、涼介はやはり彼をあの山野屋から奪い取って正解だったかもな…と密かに思った。



啓介が身請けされようとしていた拓海を奪い取ってきた日、ざんばら頭になってしまった拓海を見て、涼介は「もうちょっとマシにできなかったのか…」とため息をついた。そして懇意にしている床屋を招いて綺麗に整えさせたのだった。

今の拓海は男物の着物を纏い、髪も綺麗に短くなっており、ちょっと見ただけでは色街で人気のあった『秋葉』とはわからない。
それでも最初のうちは、やはり高橋屋の次男坊が『秋葉』を山野屋から奪ったという噂がまたたく間に広がり、一時は暖簾分けした啓介の店先に野次馬が押しかけてくるほどであった。
しかし、この辺一体で力のある高橋屋が睨みをきかせれば騒動は徐々に収まり、拓海はこうして啓介の愛人ではなく、「手代」になるべく少しずつ店先に顔を出すようになった。


「あれ、兄貴………今日って何か用事あったっけ?」

店内で番頭と話をしていた啓介は、拓海と共に入ってきた涼介に怪訝そうに尋ねる。

「いや………今日はいい酒が手に入ったから、久しぶりに一杯やろうかと思って来てみたんだがな」

手にしていた一升瓶を、啓介と話していた番頭に渡しながら涼介が笑うと、啓介は少し苦虫を潰した表情になる。

「………とか言いながら、本当は拓海の酌で飲みてぇんだろ?」
「誰もそこまでは言っていないがな…………どうだ、拓海も良かったら」
「え……でも、………」

いくらこの店の主人と恋仲とは言え、拓海はまだ下っ端的な立場なのに、主人達の酒の席に自分が混ざってもよいものなのだろうか……と考えてしまう拓海に、啓介は苦笑しながら肩を叩いた。

「……付き合ってやってくれよ。これで頷いてもらわないと、俺が後でいろいろと困っちまうからな」
「………心外だな、啓介。まるで俺が何かしそうな言い草じゃないか」

(本当にやるから怖ぇんだって…………)

長年の付き合いで、涼介のこの穏やかな表情の下に潜んでいる怖さをよく知っている啓介は、その言葉を声にはせずにそっと腹にしまいこんだのだった。






「ッ………ン、ぁ―――――

柔らかな灯りの中で、拓海は啓介のたくましい裸の背中に指を滑らせた。そんな拓海を慈しむように啓介は柔らかい口づけを拓海の肌へと落としていく。

「たく……み……」
「は……っ、そこ……ゃ………っ…」

酒が入り、いつもよりも全身が綺麗な赤にうっすら染まる拓海の肌を、啓介は堪能するように味わっていた。

「け……、すけ、さ……ッ…」
「拓海…………もう…離さねぇからな………」

会えなかった時、どれだけ拓海に恋焦がれたか。
その時の思いを今拓海に伝えるかのように、啓介はゆっくりと拓海を快楽の海へと溺れさせていく。

そして拓海もまた、他の男に抱かれながらも啓介を思い出す日々を過ごした事を伝えるべく、啓介の腕の中でゆるりと花開いていった。



――――これからは、並んで共に歩いていこうな。



身請けされたその日の夜、啓介は拓海を抱きしめながらそう囁いた。



「愛人」として日陰の日々を送るのではなく。
啓介とともに、これから少しずつ日の当たる道を歩いていくのだと。







「啓介、さん……………」




愛しいその名前を呟いて、拓海はそっと啓介の唇に自分の唇を重ねたのだった。









                      ――― 了 ―――





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